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ブログ2020.07.13

【中学時代のサンキュー先生との思い出!(その①)】

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決して“名将”とは呼ばれてはいませんが、私の中での“名監督”が間もなく指導者としての幕を閉じようとしています。

以前のブログでは私がレスリング選手であったことを述べさせていただきましたが、レスリングを始める前は田舎の中学の4番バッターでした。

大阪の中心部から滋賀県の田舎へ

私は大阪市内の中心部で生まれ育ち、小学校3年生の時に滋賀県の蒲生町という田舎に転校したのですが、都会育ちであった私は全ての環境に馴染めず、自分の方向性を見失っていた時期がありました。
環境の大きな変化というのは恐ろしいもので、肺炎や胃腸病で入院したり、今でいうパニック症候群の状態に陥ったりと、苦しい状態が中学校の二年生まで続きました。

部活動での師弟関係

中学に入学してからもなかなか環境には馴染めず苦悩の日々を過ごしました。野球部に入部するも本格的な指導者がいなかったために遊びの延長のようなクラブ生活でした。そんな中、2年生の春になって、野球部の顧問として来られた先生がいわゆる産休の先生の代わりとして臨時で来られた(サンキュー)先生だったのです。この先生はまだ大学を出たばかりの先生で、クラブ活動以外にクラスの副担任としてもお世話になりました。この頃、私は最も自分を見失っていて、なかなか素直に人の話も信じられない時期だったのですが、ある時 私のことでクラスで些細な問題が発生した時に、このサンキュー先生は涙ながらに私をかばってくださいました。真っ黒に日焼けして野生感あふれる顔つきで、決してスマートとは言えず不器用だけれど地味な存在の先生でしたが、この時は私の気持ちを代弁するかのように先生の情熱がすごく伝わってきました。そしてこの瞬間から私の考え方は変わり、その先生に応えるために野球を真剣にやろう!と決心し、休みがちであったクラブも毎日参加して、超至近距離の根性ノックも志願して受け、先生の強烈なノックを夕方のボールが見えなくなるころまでずっと受けていったことが、その後の私の自信につながりました。
その先生の指導の下で秋には新チームとなり、強豪校とも互角に戦う事が出来るまで戦力も底上げされて、私は4番を任され田舎のスラッガーとしてデビューさせていただきました。

若い臨時講師の先生が甲子園を目指して躍進

ところが…サンキュー先生は6か月の臨時講師!秋にはお別れが…
今でもこの先生との出会いが無ければ…と考えると、本当に感謝の思いしかない、私の恩師の一人です。

ある時、滋賀県のローカルニュースの報道を見ていたら…
当時、「栗東高校」の野球部の監督が体調不良で指導も采配もできなくなり、その高校野球部の臨時監督として陣頭指揮をとられることになったのがサンキュー先生でした。
確か昭和58年の夏、地方大会まで2か月しかない期間で陣頭指揮をとられ、栗東高校は滋賀県大会のベスト4進出!準決勝こそ甲子園出場を果たした名門 比叡山高校に敗れたものの、当時の新米臨時講師の快進撃は全国ネットのTV番組やニュース、新聞・媒体に取り上げられるほどの話題となりました。

苦労人のサンキュー先生がついに合格!!

しかし、これだけ指導者としての素質を発揮していても、なかなか教員採用試験を経て正式教員に採用されることがなく、講師で学校を転々として、いつしかセメント工場の非正規工員として3交代勤務でユニフォームもホコリだらけの中で勤務をされていた苦労人の先生!当時、滋賀県ではびわこ国体が開催された直後で、強化要因の体育教師を大補充したことで長年、採用枠がなかったり、少なかったりして合格することが難しい以上に採用試験すら行わない年もあるくらいの厳しい時代だったと思います。
しかし、そのサンキュー先生は諦めずに勉強を続けられ30歳前後の時に遅い春がやってきたのです。見事採用試験に合格!!

次回ブログに続く…

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